|
ガキの頃、一番なりたかったが、一番最初に諦めた職業が映画監督である。
『黒澤明』という名前だから、ってのは殆ど関係なく映画が好きだった。いや殆ど関係ないと言う訳でも無いかな?こんな名前を付けるくらいだから父親も映画好きで、その映画好きの親のDNAと環境で、映画好きな人間形成が出来たのがそもそものスタートですからね。
現在、自分は多少不本意ながらもDTPデザイナーを生業としております。
映画監督は元々頭が良い人が更に努力して勉強し、良い大学へ行き、さらに現場で沢山の沢山の努力を積み重ねた結果なれる職業であると信じていた。現にそうなんだけどね。
中学の時点で自分は『勉強』というモノに向いていないと自覚してしまったのと同時に映画監督への夢は捨てたも同然でした。努力して勉強した時期もありましたが、基礎からサボってた奴が報われる事など無く、『名前負け』と教師に何度も何度も何度も言われ、すっかり『落ちこぼれ』が板に着いてしまったのでした。
『落ちこぼれ』な明くんは、映画監督の次に憧れていた職業のカメラマンならどうかな?なんて考えはじめたのが高校の頃。生まれた頃の家業が写真館であったこともあり、カメラマンを目指し日本写真芸術専門学校へ入学。しかしカメラマンの世界も学歴社会。専門卒はカメアシにしかなれないのが現実。いずれ広告制作部を作る予定でいるから、と言う甘い言葉にだまされ不動産会社に入る。そこで出会ったのがパソコン(当時はマイコンと呼ばれてたけどね)。パソコンってすげ〜なぁ〜って思った。
『落ちこぼれ』な明くんは、不動産会社でやっていける筈がなく、次に憧れていた職業のイラストレーターの道を目指すのです。この浅はかさが実に『落ちこぼれ』的ですねw
専門学校時代の友人が某アダルト出版社で編集をやっていたのでアダルトなイラストを描いて凌いでいたその頃、マイコンからパソコンの時代がやってきたのです。
パソコンはマイコンと違ってOSが搭載されてるからサルにも使える事を知り、その上、写真もイラストも動画も出来るって言うではないですか。これはもう始めるしかないでしょ。
ビートルズかなんかのPVで虹色の林檎マークがインプットされていた明くんは短絡的に「パソコンならMacでしょ」って事でMacを購入。
フォトショやイラレを使いまくって日々を過ごしていたらDTPの時代に。まだ地方ではMacで広告を作れる人口があまりなかったため、意外に簡単にDTPデザイナーになってしまったのでした。
今やサルにでもDTPが出来る時代が来てしまい、オヤヂデザイナーには冬の時代になってしまいました。
そんな中、一つの縁(えにし)が。
会社でお世話になっているNPO法人で経営しているミニシアター、深谷シネマに敬愛してやまない大林宣彦監督が来館すると情報を入手。早速、逢いに伺いました。
監督は巨匠、黒澤明先生の話を織り交ぜながら『縁』に関する話や御自身の作品『理由』について色々とお話しして下さいました。そして最後に、優しく強い声で、この不肖、黒澤明に語りかけてくれたのです。その時に何か一筋の光を見た気がしました。映画の光を。
大林監督との出会いを口火に次々に色々な方々と出会う事になったのです。
バストラルな映画人で僕がメガフォンを取る時はプロデューサーになってくれ!というお願いをどうやら聞き
入れてくれたコワセのにーちゃん。
鋭い眼光を飛ばしながらもホルモンを焼いてくれた井筒和幸監督。
これからの映画界の最前線に立つこと間違い無しの入江悠監督。
透明で優しい風を感じさせる画像に、だれもが癒される声、その上美人と言う事無しの太田綾花監督。
お逢いしては居ませんが、僕がイラストレーターに憧れた切っ掛けとなった、おおた慶文先生。(名前は憶えてくれたとの事。ね!太田監督!!)
あまり会話はできませんでしたが阪本順治監督、村上淳さん、MITCHさん、高橋かおりさんの『クラブ進駐軍』の皆様。
その他にも数多くのインディーズの監督や俳優さん、そしてコアな映画ファンの皆様と1年足らずの間に沢山の沢山の沢山の『縁』ができました。(ただ逢っただけでも縁が出来たと言ってしまう僕です)
深谷シネマ〜インディーズフィルム〜ルート、MIXIルートと、かなり多くの方々と対話する事でかなり多くの刺激を受けています。
映画に関する熱い思いだけに留まらず、『生』と『死』であるとか、日常忘れがちではあるけれど、とても大切なことなどを含め、閉じたままだった心の引き出しを再び開く時が来たように感じられます。
そして再び沸き上がる思い「映画が撮りたい」という心情。
40才を目前に出てくる「撮れるのでは?」という可能性。
今まで、正直な話、何度も映画を撮ろうと考えました。
しかし、かんたんに撮れる世情ではなかったし、それ以上に『黒澤明』という大きな十字架を背負っていて、否!背負っていたような気がしていたせいで撮るに至らなかった。
『黒澤明』という名で半端なものを作ってしまったら『映画』に対する冒涜だし、巨匠、黒澤明監督に対する冒涜のような気がしていたのです。
自分が再び撮ろうと思い始めた切っ掛けは実は『ゴジラ』なんです。
20年位前でしょうか。まだ高校生の頃に軽井沢で購入した塩ビのゴジラの人形。
こいつを動かして映画を撮ってみたいと言う衝動にかられてしまい、早々に特撮愛好会を立ち上げ、夏休みを投じて文化祭用に1本撮ったのです。
内容は身の丈20cm弱のゴジラが家庭の食卓に出現し、テーブルの上の食べ物を次々と破壊していくという他愛もないものです。
10分少々のその作品は、自分の卒業後、埼玉県の高校放送部連盟とやら主催するビデオ大会なるものに出展され(僕にはなんの告知もありませんでしたが)なんだか、審査委員長のツボにハマったらしく、賞こそいただけませんでしたが、絶賛のお言葉を頂いたのです。(審査委員長はNHKの偉いさんだったらしいです)
それですっかり満足してしまった僕はゴジラに終止符を打ち、封印したのでした。
それから20年後。
それは深谷シネマの映写マンの永吉くんとの会話で始まりました。
「黒澤さんは映画とかって撮らないんですか?」と永吉くん。
「1本だけむかぁ〜〜し撮ったけど、あれは映画っていうかなんていうか・・・w」
で、どんな内容かって話をしていたら、永吉くんが観てみたいと言うので、家の押入の奥から引っ張り出し、永吉くんに手渡したのです
しばらくして、深谷シネマに顔を出すとコワセさんを始め、色々なスタッフの方々から「ゴジラおもしろかったですよ〜!」とお褒めの言葉。
歯に衣着せぬ辛口批評と言うと聞こえが悪いが、深谷シネマのスタッフ一同は映画の目がそれはそれは肥えているので、やたらな作品じゃ褒めてもらうことなんか出来ないので、ひとしお嬉しかったですね。
で、コワセさんから提案が。
七夕の時に行われる『ふかやインディーズ・フィルム・アワード』であのゴジラを上映しよう!と。
はじめはただの冗談だと思っていたのですが、どうやら本気だったらしく、しらない間にチラシまで出来上がっていてww
ホントにやっちゃうの?と、不安になったのはこっちの方でした。
ただ、コワセさんの上映趣旨を聞いて納得。
05年のインディーズ・フィルム・フェスティバルで、『高校生の部』と銘打って近隣の高校生の作品も募集しようとなり、その呼びかけの一環として上映したいとの事。
高校生くらいの年齢でしか出せない勢いとか熱いハートを感じ、作りは雑でも、完成度が低くても良いから、エネルギーに満ちた作品を募集したいということで、それにはゴジラがピッタリだったそうなんです。
そんなことで、20年と時を経て、ゴジラが再び日の目を見ることになったのです。しかも、敬愛してやまない大林監督を始め、数々の名作を投影したのと同じ銀幕に・・・感動!
『ふかやインディーズ・フィルム・アワード』で上映された時には入江監督のトークショーも行われておりました。受付にいて、中の声が聞こえてきます。
熱いシネトーク・バトル。そして大きな拍手☆
やっぱいい映画撮る人はちげーなー・・・
と、思ってた矢先、司会のコワセさんの声で、「続いてはあのゴジラの監督の、黒澤監督にお話ししてもらいます」って、おいおい!てなもんですよ。
入江監督の後にそりゃないだろーーー!!! みたいな。
深谷シネマはスタッフだけではなく、来てくれるお客様も皆コアな映画ファンなので、『黒澤明』の名前で、あんなの撮った日にゃ、どんな風に思われるか!?その日も怖くてゴジラの上映中は館内に入らないようにしてたくらい。
恐る恐る館内へ入る。かなり痛い視線を覚悟して客席を観ると、なんとお客様皆さんニコニコ顔!!
20年前の作品であるとか、上映するに至ったいきさつ等を話、2、3の質疑応答の末、終了。
外で一息ついてたら、お客様のお帰りです。皆さん口々に「おもしろかったですよ」「次回作期待してます!」と言ってくれました。
夏休みを棒に振って撮ったかいがありましたよ〜〜〜。って、何?次回作???
そう。ゴジラを観た人は皆、口をそろえて「次回作期待してます!」と、言うのです。
俺、撮っていいの?
|